インターネットは情報量が少ない

[萌えた体験談 ]

今日、この体験談というか、小説みたいなものを読んでました。
あらすじはこうです。
あるとき迷惑メールが主人公のモトに届きました。
月2万円であなたの恋人としてメール相手をしますと。
半信半疑だったけど、3日の無料体験のあと好感触だったので続けました。
最初はぎこちなかったのですが、しだいに打ち解けて、いくつかのNGと「会わない」以外はまるで恋人のようにふるまってました。
ところが、あるとき、彼女から終電が終ったとメール。そしてコンビニで酔っ払ってうごけないので彼は迎えにいきました。そこで初対面。そして、彼女の家を知らないので自分の家に運び入れます。

俺はさっき買ったミネラルウォーターをコップに注ぎ彼女へ渡した。
ぐいぐいと水を喉に流し込む彼女。
実物がそこにいるという存在感。
目の前にある姿。水を飲む音。
そしてだんだんと慣れてきたお酒の匂い。
携帯のメールとは圧倒的に違う知覚神経に伝わる情報量の差。
やっと彼女と出会えたことに喜びつつも、
俺は彼女とのメールでの2ヶ月間に少しずつ自信をなくしていた。
所詮メールはメール。
今こうしてやっと会えた彼女は、
2ヶ月あまりの間メールを重ねたとは言え、やはり初対面も同然なのだ。

とな。

この「情報量の差」ってのにハッとしたのですよ。
すごくメールを重ねてもいろいろなことを知ってても、写メで顔を知ってても、Skypeで声を聞いてても、そこにいるといないとじゃ大違いだなと。

よく、インターネットは情報の渦にまみれてるなんていってても、実はそれって生身のニンゲンがそこにいるってことに比べるとなんでもないんだよなあと思ったりしたのです。

私は、イラストを描いて自分のサイトに掲載したり、イラストの資料のために中世ヨーロッパの食事風景を調べてみたり、ブログで自分の思ったことを書いたり、ブログについたコメントからふとアルファベットの歴史を調べてみたり、動画サイトで自分の好みに合う音楽を探して聴いたり、そこで戦前戦後の歌謡曲に興味を持ったり、それらの過程で他人と交流したりしている。

しかし、これらの行動は、インターネットをしない私の母から見れば、ただパソコンの前に座って何かをしているようにしか見えない。
[ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について― - yuhka-unoの日記]

以前、音楽原発ライターの高橋健太郎氏がコラムで、今、自分が遊んでる姿も仕事してる姿も変わらないなんておっしゃってて、んまあそうなんだよなあと思ったりしましたよ。家でPC、仕事場でPC、通勤途中はスマホなんて、ネットにふれっぱなしでも、それは実はそこにいるニンゲンとの会話に比べると情報量の点で「薄い」んですよね。

人は、「見えない」ものは「ない」ものだと思ってしまいやすい。「自分の立場からは見えないが、そこには何かしら存在しているのだろう」というふうに考えるのではなく、「存在しているのだろう」とすら考えられない。

ゲーム機や携帯に親しんでいない者からすると、ゲーム機や携帯を操作する者は「思考が見えない→思考がない→何も考えていない」というふうに思ってしまうのだろう。
[ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について― - yuhka-unoの日記]

そう、今でも実に「ネット」というものを知らないヒトってのは少なくないし、伊集院光氏の奥さんのように、「PCにさわらない人生を選択」してるヒトもいくらかいらっしゃいますし、身近にいた「そういうヒト」は、ケータイこそいじってはいたものの、ネットの概念がまったくなく、なおかつ遠くにいたので、電話やメールで特定のWEBを開かせるということにおいても途方も無い努力が必要だったことを思い出します。
そして、そういうヒトにとってみると、iPhoneなんて、石鹸箱を眺めてる気持ち悪いヒトと同様にしかみえないんだろうなあと思うのです。
そして、たぶん、ここでこう読んでいらっしゃる方には意外かもしれませんが、実のところ石鹸箱を眺めているのといっしょです。それはAndroidでもPCでもいっしょです。
実際に気心の知れたヒトと会って顔をみて笑い合ったり、感情を共有して、話すことのほうがボーダイな情報量の交換になりますし得るモノも多いんですよ。
純粋な知識ってことじゃなく、聴覚視覚嗅覚触覚全部ひっくるめた「情報量」という意味で。

だから、ネットはいいんですよね。
上記の面と向かって会って話すって行為は圧倒的な「情報量」を伴いますが、そのほとんど、場合によってはすべてが「ノイズ」であるともいえるのです。
ただ、それらを総合で判断するという錯覚にとらわれるだけで、実際のところなにひとつ的確な情報を得てないということもあります。
「雰囲気イケメン」なんてのはそれを端的に表すステキなコトバと思います。ある意味錯覚を利用した詐欺行為ともいえますよ。
ただ、それでも「会って話す」ということは重要なことです。かつて、「ネットバトル」というものがありましたときには、必ず、どっちかが「会って話そうぜ」なんていってたものですし、いまでも「オフ会」は重要ですよね。

じゃあネットは有意義な情報で、ノイズがまったくないのか?ってことですよ。実のところネットもほとんどがノイズと思いますよ。たとえば、このエントリとか。
でも、その薄さがいいんですよね。ノイズも薄い。なんたって「ノイズ」垂れ流しをすぐにシャットアウトできるもんね。コミュ障にゃあもってこい。だ、だれがコミュ障や!

ついでに書いておきますと、上記の「会って話そうぜ」派のヒトの理屈をネットのほうに持ち込んだのが、ケータイメールはすぐ返すとか、絵文字を使わない文章は冷たく感じるなどの、文字の情報以外の「感覚での情報」ですよね。

「Tokyo Mobile」の主人公も好きになって会いたくて会いたくてたまらない感じがよく出てますし、実際にあったときのボーダイな情報量に目が眩んでる感じもよくわかります。

ちなみに、この作品、おもっくそネタバレすると最後は悲恋になります。せっかく会った彼女は遠くの実家に戻り音信不通になります。
これも考えたらいろいろな理由がありますが、やや穿った見方をするなら、彼と実際にあって、彼同様たくさんの「情報」を手に入れた結果、彼はよりホレたのですが、彼女はメールや写メからはわからない「あ、こいつダメだ」判断により切られたって可能性はありますよねー。たとえば、すげえワキガだったりとかねー。情報って残酷だよねー。