「わたし」と「私」を間違えられて、何度言っても何度も間違うとか、そういうのは、マジで凹む。誰も気にしないでしょうケド、意外と気にするんデスよ。

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「ボク」と「僕」が違うように、「わたし」と「私」は違うんだよ。分かれ!分かってください!

わかるわ。こういう推定読者100人いないブログの運営者もそういうどうでもいいことに意外とこだわってるもの。
しかも、マンガの場合、セリフじゃん。セリフのニュアンスってのは死ぬほど重要なことだよ。
まったくもっておっしゃるとおりなんだよ。「ボク」と「僕」はまったくちがう。作者にしてみれば、オモテにでないところまで作りこんだキャラクターを表現するためには「ボク」でなければダメってことは往々にしてあるしそれは主張すべきことと思う。実際言語化すると難しいことなんだろうけどさ。だけど、マンガの編集はわかっておくべきと思うよ。

台詞や言葉遣いはコンテクストとしての流れの中で表されるキャラクターの一要素だってこと。分かってください。これは、小説であれなんであれ、同じ。ツイッターですらね。

Twitterはとくに140文字でバカがバレてしまうおそれがあるし、それは「てにをは」の一文字で明暗を分けるってこともありそうだよな。

エロ漫画雑誌の編集さんには、セリフや言語部分を軽んじる編集さんが結構多いです。私も経験者です。

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「漫画は漫画家と担当の共同作品なので完成ネームに無断で手を加えて良いと思った」と話していました。そのレベルの認識だと思います。

「共同作品」であるという認識はそうなのかもしれないけど、共同作品であるなら「無断」がいいわけあるかどうかって世界中のヒトにたずねてまわっても答えは決まるとおもうんだけどなあ。

ネームの時点で確認するのが定番では。出版社の定めた統一表記から敢えて逸脱することに、どんな意味があるのか徹底して糺します。そして極力こちらの表記に直させます。

で、これが編集さんの意見。「直させる」のは別にかまわないと思う。「無断」じゃないんだから。作品以前に商品として流通させないとダメなわけで、それが「店頭」にならべるのに似つかわしくないという理由で修正を求めるのはいいことと思う。ただ、それは了解を得てからの話だよな。
で、出版の統一表記ってんは絶対じゃないよなあ。作品によっちゃ、「僕」が「ボク」のほうが活きる場合、それを例外として通すのが担当編集の本来のシゴトなんじゃないの?そしてそれこそが「共同作品」なんじゃないの?

ひとつ思い出した例を。

山上たつひこ氏の「鉄筋トミー」という作品がありました。

この作品のセリフに「こんなキチガイみたいなやつに会えるか!」ってのがありました。実際にそれにピッタリの行動をトミーはしてました。まさに「キチガイ」でした。
ところがあとで出た版では「こんなアホみたいなやつに会えるか!」に直ってました。この場合、絶対に「アホ」じゃダメです。おれは笑いがイッコ減って損した気持ちになりました。
よくある放送禁止用語の問題です。昔の作品はほぼすべて修正されておりますよね。ただ、こういうふうに損益もあるわけですよ。

[「ドリフターズ」2巻 平野耕太(少年画報社): ポトチャリコミック]

ドリフターズ」もそうだけど、「ヘルシング」での演説よ。

[諸君、私は戦争が好きだ]

これを変えようと思える?一人称を「私」じゃなくて「ボキ」にできる?

漫画の描き文字は無論ですが写植文字も一種の「絵」であり画面のバランスを作る重要な要素かと。同じ単語でも前後の文字のつまり具合によってはひらかなにした方が読みやすかったり漢字にした方が読みやすかったり。話す言葉が生きものなように書かれた文字も生きもの。杓子定規な統一は不賛成です。

これですよね。山本貴嗣氏の名ツイートです。まさに「字面」ですよね。どこでワンセンテンスでどこで改行で、パッと見た瞬間の文字の並びであらゆることが表現できますよね。

んま、編集は編集の立場や苦労もあるんでしょうけど、それを乗り越えてなるべく作者がやりたいように仕事しやすい環境を作るのが1番大事なシゴトなんじゃないかなーっとシロウト考えでは思うのです。だって、作者が頭の中にあるとおりの「おもしろい」マンガ読みたいじゃん。

で、最終的にたどりつく結論ってシンプルだと思うんだよな。作者も編集も読者もみんな「おもしろい」マンガを求めている。
だから、最後に編集側に立ってみるなら、編集会議で「これはこの表記じゃなくちゃいけないんです」って擁護しつつ主張できるような「おもしろい」マンガをマンガ家は描かないといけないわけですよ。あー大変だ大変だ。